井伊直弼にまつわる話

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安政の大獄

井伊直弼(いいなおすけ)は、江戸末期開国の圧力で揺れる中、強権的に反対派を粛清した「安政の大獄」を起こした彦根藩出身の大老です。反対派の恨みを買った井伊直弼は、桜田門外の変で惨殺されてしまいました。

その井伊直弼の墓が、世田谷の豪徳寺にあります。豪徳寺は、井伊家の菩提寺の一つです。その豪徳寺のそばには、安政の大獄で処刑された吉田松陰の神社があるので、いまだに因縁がある関係といえるでしょう。

世田谷は、かつて彦根県だった

なぜ、彦根出身の井伊家の菩提寺が、世田谷にあるのでしょうか。

これは、江戸時代初期の1633(寛永10)年に、荏原郡の世田谷、弦巻、用賀、瀬田、上野毛、下野毛、野良田、小山、そして多摩郡の八幡山、大蔵、鎌田、岡本、岩戸、猪方、和泉の村々が、井伊家の「江戸屋敷賄料(まかないりょう)」として「彦根藩世田谷領」の領地となったことによるのです。

1651(慶安4)年には、「多摩川」の整備のため荏原郡の太子堂、馬引沢、多摩郡の横根、宇奈根の4ヶ村が追加されました。さらに万治年間(1658~1660年)に開村した世田谷村の枝村、世田谷村新町も組み入れられ、結果として現在の世田谷区のほとんどが彦根藩の領地となっていたのです。

このほか、井伊家の所有する場所は、現在の明治神宮や最高裁判所など至るところに点在していました。江戸時代に、東京の土地を多く所有する有力な大名でした。

明治初期、廃藩置県のときに、世田谷は一時的に「彦根県」となっていました。ただ、県をまたぐ飛地はさすがにまずかろうと、程なくして荏原郡は東京府に、多摩郡は神奈川県に編入されたのでした。

豪徳寺の由来

もともと、豪徳寺は、世田谷城主の吉良政忠が、城内に伯母の菩提のため「弘徳院」を建立したのがはじまりで、1633(寛永10)年、世田谷が「彦根藩世田谷領」となると、藩主の井伊直孝が中興し、寺名を「豪徳寺」と改めたのです。

以来、豪徳寺は、井伊家の大名墓となりました。

ちなみに、このお寺の招き猫は、井伊直孝が猫に軒下に招かれたときに豪雨を避けることができたという出来事が由来によるそうです。

井伊直弼の墓の謎

桜田門外の変で殺害された井伊直弼の墓は、豪徳寺にあります。ところが、世田谷区教育委員会と東京工業大学が調査したところ、この墓に井伊直弼の骨らしきものは、存在しないことがわかったのです。

大名の墓は、遺体が埋葬されている「本葬墓」、祀りのための「分霊墓」、転封などで移動した「改葬墓」などが複数あることが知られています。江戸時代は参勤交代が行われていたので、江戸と国元に墓を作るのが都合がよかったからと言われています。

井伊直弼については、東京の豪徳寺のほかに滋賀県彦根市、栃木県佐野市にも墓があります。もっとも、怨恨によって殺害されたため、墓をも荒されるおそれがあって、豪徳寺に葬らなかった可能性もあります。本格的に発掘調査しないと、歴史の真相は分からないでしょう。

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