世田谷区成城は、映画の製作で発展した街です。成城の発展は、以下の時期的偶然が重なったことによるものです。
- 昭和初期に、東宝撮影所ができた
- 同じ時期に、成城学園を中心とした学園都市ができあがった
- この地に、多くの文化人が移り住んだ
そこで、成城の町の発展を、東宝と成城学園という2つの法人の成り立ちを軸に振り返ってみたいと思います。
東宝撮影所の成り立ち
現在、成城1丁目にある東宝撮影所は、昭和7年10月に完成しました。
P・C・Lの誕生
この撮影所の母体は、植村泰二が創業した写真科学研究所(Photo Chemical Laboratory 通称P・C・L)です。昭和初期の映画は、無声映画からトーキーに変革する時期です。当初P・C・Lは、トーキーの録音技術を提供する業務を請け負い、映画の自主製作は行っていませんでした。その後、映画製作に足を踏み入れるべく、一歩先に映画事業を進めていた日活と制作提携をしたのですが、日活側の社内事情が原因で、突然契約を破棄される羽目におちいりました。このため、P・C・Lは自身の力で製作に踏み出さざるを得なくなったのです。
P・C・Lは、昭和7年6月に国産トーキー社を吸収し、10月25日に白亜の撮影所を完成しました。棕櫚の木が立ち並ぶモダンなデザインを目の当たりにした成城在住の詩人の北原白秋も、感銘の思いを句にしたほどでした。
雪の晴れP・C・Lの白屋根は赤外線に見る近さかな
北原白秋
春撮す何のセットぞ街建てゝ裏あらはなり芽ぐむ雑木々
第1回作品
東宝撮影所の記念すべき第1回作品は「ほろよい人生」(監督:木村壮十二)です。
オープニングタイトルは、完成まもないP・C・L撮影所の風景です。
また、業務を拡大するため、関西の実業家・小林十三の指導のもと、京都のJ・Oスタジオとともに東宝ブロックを作り、東京宝塚劇場参加の作品の興行を請け負うようになりました。
東宝の誕生
業務の拡大に合わせて、昭和9年に映画監督の山本嘉次郎が日活から、成瀬巳喜男が松竹から、そして昭和11年には藤本真澄と黒澤明が入社しました。京都のJ・Oスタジオでも、昭和8年に市川崑が入りました。俳優陣は、入江たか子、大河内伝次郎、原節子、高峰秀子、長谷川一夫らが入りました。
そして、昭和12年に写真科学研究所、P・C・L映画製作所、J・Oスタジオ、東宝映画配給が合併して東宝映画株式会社となり、昭和18年には株式会社東京宝塚劇場と合併して、製作、配給、興行を行う現在の東宝株式会社ができあがったのです。
学園都市・成城の成り立ち
成城学園の学校用地探し
時同じくして、昭和初期は成城学園の街が開発され、発展を始めた時期となります。
地名の「成城」は、大正時代に新宿に創立された成城小学校が、現在の地に移転したことに由来します。中学、高校を含めた総合的な学園建設が必要と考えた創始者の澤柳政太郎は、郊外の用地探しを始めたのです。
代々木八幡、初台、大山、小金井、国分寺、国立など候補があがっては消えました。中でも、上高井戸は最後まで候補に残っていましたが、地主たちと価格面の折り合いがつかず、泣く泣く断念せざるを得ませんでした。
その時、小田急電鉄が鉄道建設計画を進めていました。沿線計画地に、地価が安く、家が一軒もない御料地(当時は国有地は皇室所有でした)がある話を聞きつけたのです。そこで、澤柳は、学校主事担当の小原國芳らと敷地の検分に出かけたのです。渋谷から用賀まで電車に乗って、そこから無人の雑木林の中を徒歩で進み、事業予定地に向かったのでした。富士山を見渡せる高台、近くを流れる多摩川の自然豊かな風景を見て、澤柳らは学園建設を即断したのでした。
小田急電鉄との交渉
その後、地主との用地買収や小田急電鉄との駅舎建設の交渉は、小原が担当しました。
小原は、通学が不便では学生が集まらないため、駅舎付近の地主・鈴木久弥および小田急電鉄社長の利光鶴松と、以下の条件での駅舎建設を交渉しました。
- 学園入口西側に駅舎を建設してほしい(当初案は、現在の成城学園前駅と祖師ヶ谷大蔵駅の中間だった)
- 急行の停車駅にしてほしい
- 駅名を学校名と同一にしてほしい
- 駅の広さを10,000坪にしてほしい
交渉は難航しましたが、地主の寄付と土地価格の値引きによって三者は合意に達し、昭和2年4月1日に成城学園前駅ができあがったのでした。
地主との交渉
小原らは、小田急電鉄のみならず、北多摩郡砧村喜多見台の地主らとも用地買収の交渉を行います。大正期なので、現在のような都市計画法や建築基準法のような法令はありません。買収価格だけでなく、学園都市建設にふさわしい独自の基準を用いて、関係者の説得に奔走したのです。
- 敷地の四分の一以上の建物を建てない
- コンクリートあるいは木造の塀は造らない
- 学園が桜の苗を一万本購入し、道路の両側に植える
- 道路は、巾三間(約5.5m)とする
- 十字路の四隅は、角を切り落とす(角切り)
用地買収後、土地区画整理組合を作り、学校、病院、上下水道、郵便局、商店、駐在所などがそろった住宅地37万坪の街の基盤ができあがりました。
多くの文化人が移り住む
東宝撮影所と学園都市・成城学園という環境が整ったことから、多くの文化人がこの地に移り住んできました。名前を挙げればきりがないほどですが、これまで辿った歴史経緯を踏まえると、成城ブランドの向上に寄与したのは、俳優・三船敏郎であると思います。
三船敏郎は、1920年に中国で生まれ育ちました。実家は写真屋でした。20歳で軍隊に応召され、終戦まで軍隊生活を送ります。豪放な性格故に上官との衝突を繰り返し、軍隊では昇進しませんでしたが、家業の写真を扱う任務を担ったことなどから、戦地に赴くことなく終戦を迎えます。
戦後、三船はカメラマンを志し、東宝撮影所に履歴書を出しました。ところが、目鼻立ちの整った顔だちを見た会社側は、第一回目の俳優募集「東宝ニューフェイス」を受験するよう勧めたのです。採用試験は、ぎりぎり補欠で合格し、期せずして三船は、俳優の道を歩むことになったのです。最初の主役級の仕事が、成城学園が所有する長野・栂池にある山小屋「太極荘」に寝泊まりして撮った「銀嶺の果て」でした。
その後、三船の個性に惹かれた黒澤明は、「酔いどれ天使」を始め、日本映画を代表する数多くの映画作品を製作していきました。
中でも、「羅生門」(1950年)と「七人の侍」は、世界的にも評価され、ともに「世界のクロサワ」「世界のミフネ」と映画界から崇拝されるほどになったのです。
映画俳優として輝かしい成功を収めた三船敏郎は、成城町777番地に住みました。また、三船だけなく、「羅生門」に出演した京マチ子、「七人の侍」に出演した千秋実、志村喬、加東大介、田崎潤らが、こぞって成城に居を構えたのです。
その後も、山田五十鈴、入江たか子、加山雄三、滝沢修、石原裕次郎、有島一郎…挙げだせばキリがないほどの役者たちが成城の地にやってきたのです。かくして、芸能人にとって成城に住むことが一流の証のようになっていったのです。
そして、芸能人にとどまらず、学者、小説家、美術家、音楽家、政治家、会社経営者も集まり、成城は田園調布に並ぶ高級住宅地の代表格になりました。
やがて、時がたち、かつての芸能人たちは相次いで亡くなり、姿を消してしまいました。成城には、依然多くの文化人が住んでいますが、あいにく今は当時ほどの勢いはなく、三船らが遺した街の匂いが人を惹きつけているだけのように思えるのが、何とも残念なところです。
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